こんばんは。いっちゃんファーム井手です。
今日は少し昔話をしたいと思います。
昔話と言ってもここ数年のできごと。
偉大な父の壁
当時、私は、大学院で農業経済学を学んでおり、農家が加工品を作る重要性について知っていた。
そして、加工品を作って売りたいと漠然と思っていた。しかし、作る勇気がなかった。当時私は、実家住まいで実家のキッチンでイチゴジャムを作って、さらにそれを売ろうものなら両親から「売るの?そんなことしないでいい。ブドウをしっかり作って農協に売ればいいだろ?」そんな目で見られたのだ。
中途半端な加工品開発
思い切って、最初に加工品を作ったのは、2015年4月26日。
それはイチゴジャムだった。スーパーで買った1パックのイチゴ。
鍋で、砂糖とイチゴを入れて煮つめた単純なものだった。
出来上がったのはたった一瓶のジャム。溢れるように入れて、画用紙を張り、筆ペンでラベルを書いた。
広告用に、マカロン付きで写真まで撮った。
それを、私の友人が食べて、「美味しかったけど、まだイチゴジャムある?」と言ってくれたのを今でも覚えている。
しかし、私は、その後、イチゴジャムを作ろうとしなかった。
2015年6月17日。この頃は、八女市で南高梅やスモモが採れる時期。近くにある道の駅“たちばな”でスモモと南高梅を買い、ジャムを作った。瓶を業者から仕入れ、オシャレなラベルを付けた。知り合いの友人2、3人に配り試食してもらった。ある友人はヨーグルトに入れたジャムの写真を送ってくれた。私は、SNSに投稿し、いいね!の数を期待した。
しかし、美味しいと言ってくれたスモモジャムであったが、以後作ることがなかった。
2017年9月26日。
我が家がブドウ農家で、選果の途中に出る規格外の房落ちのブドウをジャムにした。
しかし、これも以後作りはしなかった。
そのあとも、キウイジャムを作ったり、梨ジャム、レタスジャムなどいろいろなものをジャムにした。
しかし、作っただけでそのあとは正直何もしなかったのだ。
父に遠慮していた僕
みなさんは、「なぜ?売れば良いじゃない?単純なことでしょ?」、と思われるかもしれない。でもその当時の僕の脳裏には常に“父”がいたのだ。“父”の存在が僕の中で大きかった。“父”に遠慮していたのかもしれない。一方で“父”とは、とても仲が良く冗談も言っていたから遠慮せずとも良かったのかもしれないが、実際のところ遠慮していた。
生命の危機を感じた
そんな父が天国へ行ったのだ。僕の中で父の存在が消えた。どうしようもない空白。寂しさよりも目の前の出来事を処理することに謀殺された。
残ったのは、農業をどうするか、ということ。
農業で生計をたてる人間が、父から僕に移ったのだ。まるで僕は、断崖絶壁に追いつめられ、足を一歩後ろに動かそうものなら、石ころと一緒に落っこちてしまう、そんな状況になった。
ここで、命の問題がでてきた。家族を路頭に迷わせることはできない。これからずっと幸せに、笑顔の絶えない未来を作る必要がある。
ここで、僕は変わった。
僕は、命をかけて、事業を全うするしかない。
父が生きていた、あの頃の僕は、父に頼りっぱなしだった。父がなんとかしてくれる。そう本気で思っていた。でもその父がいない。
僕がやるしか生きる道はないのだ。
やるしかない。
どんなことをしてでもやるしかない。
だから、猛スピードで加工品を開発し、八女本舗の催事まで突っ走った。
僕の後ろは常に断崖絶壁だ。
中途半端で終わった加工品開発を最後までやり遂げる。
最後とは、全国民1億2642万人に届けることだ。
大勝負はここからだ。
一年後、二年後どうなっているか。
楽しみだ!